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  「ガザで何が起こったか伝えてほしい」と女の子は言った
  2009年1月、ガザの女の子の1人が「ガザで何が起こったか伝えてほしい」と真剣なまなざしで訴えたことを忘れることが出来ません。あれから6年。そして2014年のガザ攻撃から1年が経っていますが、今までの中で最も大きい被害を出しました。しかしながら現地で起こったことは、停戦になればニュースも伝わらず、今では何もなかったかのようです。
  2014年、何が起こったのか、そして6年間に3回も爆撃にさらされた経験を持つ子どもたちの話を知っていただきたいと思い、岩波のブックレットにまとめました。――古居みずえ

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子どもたちの恐怖を体感しながら取材を続けて 

 パレスチナの8月は長い1か月でした。ガザに来て、パレスチナの子どもたちが味わっている恐怖を私なりに感じました。イスラエルの侵攻はこれで三度目ですが、今回は最も酷いものだと思います。
 2009年の時も、イスラム組織ハマースがいようがいまいが集団懲罰として攻撃されました。国連の学校の避難所、モスク、病院、工場……今回も同じようなところが攻撃されましたが、規模が違いました。また国連の学校避難所や病院など、人道的に許されない所が何度も攻撃されたのです。   
 これは2009年にも非難されたことですが、国際的に責任の追及をしなかったことが、規模をさらに大きくし、とどまるところを知らないほどの攻撃になっていました。
 攻撃の手法も無人偵察機(ドローン)が24時間毎日飛び、攻撃の前には更に音が大きくなり、そのうちにF16軍用機が来る耳をつんざくような音、どこに向かって落ちていくかで命が決まる。その恐ろしさは真下にいるものでしかわかりません。
 近くに落ちれば地震のような揺れと周りのガラスが振動と爆風で飛び散る。大人でもこれだけ怖いのに子どもがどれほど怖いか。すべてのガザの子どもが恐怖を味わい、将来的にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)になる可能性を秘めています。今回の攻撃が終わる前にすでに症状が出ている子どもたちもいました。
 8月26日に停戦が始まり、それから1か月間は穏やかな日が続くと人々は思っています。でもその先はわかりません。1か月後に、ガザ漁港、ガザ空港、そして封鎖解除に向けて話し合いがもたれるからです。しかしネタニヤフ政権はもう交渉団をカイロに送り込まないと言い、ハマースも武装解除はしないと言っています。しかし8年間続いている封鎖を解除することは人道的な観点からも一刻も急がれます。2009年、2012年の攻撃で壊された家や施設がまだ復興していないのに、今回全壊した建物は約一万棟にも達しています。その復興は、封鎖が全面解除されても5年、部分的にしか解除されないのであれば20〜30年もかかると言われています。
 私は今まではパレスチナのことは政治的な問題が解決されなければ経済援助だけしても仕方ないと考えていました。しかし今回の被害の酷さを見ると、経済援助も政治的な解決も同時に急がれると痛感します。今までホームレスも物乞いをする子どもも見ませんでした。人間関係の繋がりが強いパレスチナでは、必ず親戚縁者などが手を差し伸べてきたからです。けれど今は皆自分たちのことで精いっぱい、人の世話をする余裕はありません。子どもたちは今回の攻撃の話をするとき涙ぐみます。あまりにもつらい経験をしたからだと思います。
 私は2011年に映画『ぼくたちは見た 〜ガザ・サムニ家の子どもたち〜』を制作しました。子どもたちの目を通して、2008年末〜2009年1月のイスラエルによる爆撃で何が起きたのかを描きました。そして2014年、再びのガザ攻撃で2009年をさらに上回る、500人以上の子どもたちが犠牲になりました。今回、女性や子どもたちがどんな経験をして、何を見たのかという証言はぜひとも記録していかねばならないと思いました。これは今後も続けようと思っています。
 引き続き皆さまからのご支援をいただければ幸いです。 (古居みずえ)

● 古居みずえの最新のガザ情報はこちら⇒アジアプレスネットワーク

2011年から2012年へ   2011年という年は、私たちにとてつもなく大きな影響を与えた年でした。地震、津波、原発事故、未だに解決の道すら見えません… (続きを読む)
古居みずえから 『ぼくたちは見た 〜ガザ・サムニ家の子どもたち〜』について
 
ぼくたちは見た −ガザ・サムニ家の子どもたち−』 公式サイトはこちら ⇒



  パレスチナにいると、どこかしら歌声が聞こえてくる。オリーブを摘みながら、刺繍をしながら、昼食用のモロヘイヤの葉をむしりながら…
  1948年以前、パレスチナの人たちは農作業をしながら、歌を歌っていたという。戦争で、家を失い、故郷を失った人たちは荒れた農地を耕しながら、キャンプの路地に座りながら、今も歌を歌っている。いつか故郷に帰れる日を夢見て。
  パレスチナの抵抗運動では、若者たちのために、石を運んだり、兵士に子どもたちがつかまりそうになると、素手で兵士にくってかかり、子どもを取り戻したりする、女性たちの姿を何度も見た。子どもたちの命を守り、家族を守っていたのはパレスチナの母親たちだった。

  アフリカのウガンダでは貧しい村で生きる女性たちを見た。貧しいけれど、女性たちは頭の上に木や水を乗せ、たくましく働いていた。 アフガニスタンではたくさんの戦争の中を女性たちは生き抜いていた。ソ連との戦い、タリバーンとの戦い、そしてアフガン戦争…

  女性たちはどこにいても、どんなにつらくても、子どもたちの命を守り、生きている。 私は逆境に負けないで、生き続けている女性たちの姿をこれからも追い続けて生きたい。