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PALESTINE
私が初めてパレスチナへ行ったのは、1988年の夏だった。
ある日、パレスチナ人家族の家に居候したのがきっかけで、思いもかけず、人々の生活を目のあたりにすることになった。外出禁止令が続く中、人々は家の中に閉じ込められ、男性たちは仕事にもいけず、ストレスが鬱積していた。
そんな中で、女性たちは元気に家庭を仕切り、働いているのが印象的だった。外出禁止令で外に出ることすら危険なのに、屋根の上で水煙草をふかす元気な女性もいた。
パレスチナ社会で、外では男性中心ではあるが、家庭の中の大黒柱は女性だということがわかり、だんだん女性に興味がわいてきた。
以来、パレスチナの女性たちを追いかけて早18年なる。
UGANDA
ウガンダは「アフリカの真珠」と呼ばれ、緑の豊かなところで、マウンテンゴリラで有名なところだ。
女性たちはカラフルな服装をして、腰に布切れを巻いている。
どこからか軽快な音楽の流れてくる、一見して平和そうな町だった。
しかしそこで私が見たものはあまりにも悲惨な現実だった。
ウガンダ北部の村に住む子供たちは反政府軍によって誘拐され、兵士に仕立てられていた。
子どもたちは前線で戦闘に参加させられ、女子は将校の相手をさせられていた。
逃げ出せばリンチが待っていた。
それでも子どもたちは毎年、命からがらで逃げてくる。
ACHE
2004年12月、アチェは大津波によって、13万人の人々を失った。多くの人たちが、両親、兄弟、息子、娘など肉親を亡くした。
私が1999年3月、アチェを初めて訪れたとき、およそ50万人の人々が口々に「REFERENDIM(住民投票)と叫んで、独立運動が盛り上がりを見せていた。
しかしその後、インドネシア国軍の自由アチェ運動(GAM)掃討作戦で、たくさんの人たちが命を奪われた。
津波の被害後、30年におよぶ戦いが続いたインドネシア政府と自由アチェ運動が和解をした。
政治的な解決で、アチェの人々はやっと安堵できたかにみえるが、津波の被害は大きく、人々の悲劇は終わっていない。
AFGHANISTAN
タリバーンのイメージが強いアフガニスタン。
そのタリバーンのもとで、女性たち、特に教育を受ける年代の女の子たちは影響を受けた。女の子たちは学校へ行くことを許されなかった。
しかしアフガンの女性たちは状況にめげることなく、たくましく生きていた。
女の子たちはタリバーンの目を盗んで、隠れ学校で勉強をした。
若い女性たちは胸にラジオを忍ばせて音楽を聞いていた。
2001年、アメリカがアフガニスタンを攻撃し、タリバーンはいなくなった。
しかしその後、アフガニスタンはどのぐらい変わったのだろうか?
今ではアフガニスタンからのニュースもなかなか届いてこない。